私の父親は、とても『出不精』でした。
子供の頃から、それなりにいろいろな所に連れていってもらいましたが、そのほとんどが家族以外の人と一緒でした。
逆に言うと、家族だけの旅行というのは、あまり経験がありませんでした。
家族旅行で思い出したことがあります。
1970年3月14日から9月13日。
大阪で「万博」が開催されました。
私が小学校3年生の頃のことです。
子供の頃から新し物好きな私は、もう行きたくて行きたくてしょうがありませんでした。
太陽の塔、アメリカ館の「月の石」、ソ連館、オーストラリア館。。。。。
見てみたいパビリオンが目白押しです。
私の父親は、とっても『出不精』でした。
結局、2回だけ連れていってもらったのですが、その2回とも家族だけで行った訳ではありません。
父の会社の関係の方に引っ張られるようにしてでかけたのです。
それも、日帰りで。
なおかつ、父は会場に着くなり、ろくにパビリオンを見ることもなく、早々にレストランに陣取り、酒を飲み続けていました。
当然、見たかった「太陽の塔」や「ソ連館」「オーストラリア館」に行ける訳もなく、あれほど見たかった「月の石」も見ることができませんでした。
行列に並びたくなかったんです。
空いているパビリオンを数箇所回っただけだったのです。。。
そんな父ですから。
当然、スキーも自分から行く、と言う訳もなく・・・
父の仕事関係の若い方々に連れていってもらう、という感じでした。
記憶では、父親はゲレンデにある食堂に陣取り、そこで一日中お酒を飲んでいたように思います。
(万博の時と同じ・・・)
私は、なにしろ、初めてのスキーだったので、はしゃぎまわっていました。
さすがにリフトには乗せてもらえませんでしたが、緩斜面を登っては滑り、登っては滑りを繰り返していました。
多分、小学生の頃に3回ほど連れていってもらったと思います。
実は、次にスキーを経験するのは社会人になってからなのですが、ブランクが10年以上あったにも関わらず、なんとか滑ることができたのは、この頃の経験のお陰です。
そういえば、スケートを覚えたのもこの頃のことです。
小学1年生の1月にはじめた「そろばん」は、結局、小学校を卒業するまで続けました。
その「そろばん塾」は、夏合宿があったのですが、冬には、純粋に遊びを目的にした電車旅行に連れていってくれました。
長野県や草津温泉に連れていってもらいました。
この長野県に行った際に、「白樺湖」で生まれて初めてスケートをしました。
それまでに、「スキー」は経験していたのですが、「スケート」というものを経験したのはこの時が初めてでした。
しかも「天然リンク」で!!
今、思えばゼイタクな経験をさせてもらったものです。
そうそう。。。
唯一、父が率先して連れていってくれたところがありました。
「小豆島」です。
瀬戸内に浮かぶ島の中では、淡路島に次いで2番目に大きな島です。
父は、小豆島で7人兄弟の6番目に4男として生まれ、高校卒業まで過ごしました。
子供の頃の記憶では、毎年1回は里帰りしていたのではないか、と思います。
小豆島には、父以外の兄弟は全員住んでいましたので、私の従兄弟も何人かいました。
今思うと、父は毎年一回、兄弟がいる小豆島で命の洗濯をしていたのではないか、と思います。
小豆島に帰ると、従兄弟連中と海に山に、虫捕りにと走りまわるのが楽しみで、毎年夏休みに連れていってもらっていました。
父は小豆島に行くことだけは嫌がらないのです。
父の実家の近くには、ほとんど誰も泳いでいない海岸があって、夏休みに小豆島に行くとほぼ毎日そこで泳いでました。
プライベートビーチの樣なところでした。
泳ぎ疲れて帰ってくると、井戸水を浴びて塩水を落とし、そのまま縁側に座って井戸で冷やしていたスイカにかぶりつく。
夜は夜で、従兄弟の家に泊まらせてもらって、はしゃぎまわる。。。
本当は、夏休みの間中、小豆島にいたかったのですが、さすがにそうもいかず、1週間から2週間程度の田舎暮らしを満喫していました。
今でも懐かしく、楽しかった思い出です。
そして。。。
6年生の冬。
その後の私の人生を大きく左右する「ある出来事」が起こります。
この年の冬。
たしか、長野県に連れていってもらったと思います。
その帰りの電車の中で、そろばん塾の先生と中学に進学した後の話になりました。
私の中では、そろばんは小学校で終わりで、中学生になっても続けるつもりはありませんでした。
しかし、その時、言われたのです。
「トーカイに行くのなら、そろばんを続けなくてもいいけど、公立に行くのなら続けろ。」
と。