15. 大学:欅祭(けやきさい)

大学と言えば、「学祭!」

 

成蹊大学も年に1回、学祭がありました。

 

当然、放送研究会もこれに参加します。

 

200人くらいが入れる大教室を借りて、教室全体を巨大なスタジオにしてしまって、そこで一日中、様々な音声番組を流したり、その教室のすぐ近くで、「模擬店」を出して、「ビール」や「おでん」「フランクフルト」を販売していました。

 

成蹊大学放送研究会

 

 

 

成蹊大学の学祭は「欅祭(けやきさい)」。

 

その昔、「俺たちの旅」というドラマがありました。

 

このドラマの中で、主人公たちが「欅並木」を歩くシーンがあるのですが、この撮影は成蹊大学の「欅並木」で撮影されたそうです。

 

それくらい成蹊大学の欅並木は有名で、地域の人たちや学生に親しまれています。

 

なので、学祭のことを「ケヤキ」と呼んでいました。

 

「ケヤキの準備をしなければ・・・」

「ケヤキが終わります・・・」

 

「ケヤキ」で、一番楽しかったのは準備期間中です。

 

通常は、21時にロックアウトされて学内に居続けることはできないのですが、「ケヤキ」準備期間の何日かは21時以降も学内に居続けることができます。

 

成蹊大学 放送研究会

舞台裏の機材置き場です。 オープンリールテープレコーダーが3台。左の方にはミキサーがおいてあります。

 

記憶では、「ケヤキ」本番の2?3日前からは、終日、学内にいることができました。

 

2日くらいは徹夜をしていたのではないか、と思います。

 

今、思い出しても大学生活で一番楽しかったのは、この準備期間中だった樣に思います。

 

逆に一番さびしいのは、本番の翌日。

 

後片付け。。。。。

「ケヤキ」ではキャンパス内に「屋外ステージ」が仕立てられます。

 

ここでは、主に学生バンドが出演したのですが、その進行役は代々我が放送研究会が務めました。

で、私もこのステージに立ちました。^^;

 

成蹊大学放送研究会

右端の女子は、後輩。真ん中の女子は「アイドル」です。 今は、某タレントの奥さん。。。

 

 

この頃は、人前で話すことに慣れてきていて、わりと平気でした。

楽しかった大学生活も終わりに近づき、いよいよ就活の時期がやってきました。

(我々の頃は、「リクルート」と言ってました)

 

大学4年生(5年目)の春から徐々にリクルート活動を開始しました。

リクルート

(イメージ写真)

 

当時は、今の樣に「インターネット」はもちろん、携帯電話もありません。

 

企業へのエントリーは、アパートに送られてくる「就職雑誌」の中からめぼしい企業をリストアップして「ハガキ」もしくは「封筒」を郵送していました。

 

企業からの返事は、電話か郵便。

 

当時は、かろうじて自分の部屋に電話をひいてましたが、「留守番電話」の機能もなく、「着信」が残る機能もなく、今思うとどんな風にして就職活動をしていたのか・・・・・

 

当時、一瞬だけではありましたが、「アナウンサー」を思った時もありました。

 

しかし、自分の周りにいたアナウンサー志望の先輩や同級生は、本当に凄い実力の持ち主で、とてもじゃないけど適わないと思ってました。

 

今思うと、アナウンサーになる事は、それほど望んでいなかったのだと思います。

 

この頃は、「コンピューター」の関係に進みたいと思っていました。

 

実は、中学生の頃から「コンピューター」というものに興味を持ってました。

 

私が中学生の頃は、昭和52年(1977年)頃。

 

当時は、「コンピューター」という単語が一般的ではなかった頃です。

私が興味を示していたのは、「マイクロコンピューター」。

むき出しの基盤の上に、テンキーと英数字が表示できる部品が8個並んでるだけのもの。

 

これを使って、何ができるかなんて考えもしませんでした。

とにかく、新しい何かができる!ぐらいにしか考えていませんでした。

 

しかし、当時のお金で数万円します。

 

とてもじゃないけど、中学生のお小遣いで買える金額ではありませんでした。

だから、「ブルーバックス」を読み漁っては、その可能性に旨を膨らませていました。

そして、大学生になり。

ようやく、今で言うところの「パーソナルコンピューター」が世の中に出始めてきました。
(当時は、まだ「マイコン」と言っていたと思います)

 

NECのPC-8001
富士通のFM-7 など等

 

Apple?が、出たのもこの頃です。

 

しかし、当時、アップルは高かった・・・

 

で、大学生の石井くんは、「PC-8001MK2」を購入しました。

このマイコンは、記憶装置がありませんでした。

いえ。

 

「ない」というのは語弊がありますネ。

 

記憶装置は、「カセットテープ」でした。

 

例えば、何かソフトを立ち上げる際には、その都度、カセットテープからデータを入れ込んでいかないといけません。

 

これがね。

時間がかかるんですよ。

 

ちょっとしたゲームソフトを走らせようと思ったら、それだけで30分くらい待たなければいけません。

 

このゲームソフトも、1本5,000円くらいしました。

 

高いですよね。

高かったんです。

 

確か、4年目の春だったと思います。

人生で2台目のパソコンを購入します。

 

PC-8801MK2

これが、画期的だったのは、「フロッピー」を使えるマシンだったのです。

 

これで、ソフトを立ち上げるのに何十分も待つことがなくなりました。

ものの数秒でソフトが立ち上がります。

もうそれだけで、私にとっては画期的なマシンでした。

20歳の頃に、最初のパソコンを購入してから今日に至るまで、常に私の近くには「パソコン」がありました。
パソコン歴33年になります。(^_^)v

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