西暦1962年。
昭和37年2月23日。
名古屋市熱田区六番町の某産婦人科で産声を上げました。
体重4800グラム。
大きな赤ん坊だったようです。
父親は、瀬戸内の小豆島出身のサラリーマン。
母親は、名古屋市内の串カツ屋の娘。
この夫婦の長男として生まれました。
当時、住んでいたのは名古屋市熱田区六番町。
父親は、小豆島の高校を卒業してから、叔父さんを頼って名古屋の会社に就職したそうです。
この叔父さんは私の祖父の弟で、名古屋に出てきて某家に養子に入り、その後、工務店を立ち上げて順風満帆だったそうです。
父親は、この叔父さんの自宅の近くに住み、運送会社の経理を担当するサラリーマン。
で、叔父さんには娘がいたのですが、この娘と友だちだったのが母親でした。
つまり、父親の従姉妹と私の母親が友人だった訳です。
細かな出会いのシチュエーションはよくわからないのですが、やがて父親と母親が知り合い結婚、という流れになったそうです。
どうも、話を聞いていると、母親の方からアプローチをしていったようです・・・
ここら辺の話は断片的にしか聞いてませんので、詳しい話はよくわかりませんが。。。
生まれてから半年ほど経った昭和37年8月に、大阪市に移り住みます。
父親の転勤だったようです。
大阪市東住吉区喜連町という所に移り住みます。
この頃の記憶もほとんどなく。。。
「大阪に住んでいた。」
という実感もありませんでした。
そして、昭和39年7月。
時代は高度成長期真っ只中。
父親の起業とともに、名古屋に戻ってきました。
今度は、名古屋市港区。
結局、この地には16年間、住み続けることになります。
この年の11月。
弟が生まれます。
父は、身重の母親を連れて、会社を興して、名古屋に戻ってくる、という荒業をやってのけた訳です。
今思うと、その勇気に頭が下がります。
とは言っても。
名古屋には、小豆島出身の叔父さんがいます。
それと、父と同じ年の甥っ子(!)もいます。
父の年の離れた姉が産んだ子です。
この姉は、自分の母親とほぼ同時期に子供を生んだ、という事ですね。^_^;
わかりにくいですネ・・・
この同じ年の「甥っ子」が、当時、飛ぶ鳥を落とす勢いの「新日鉄」の関連会社に勤務しておりまして、やり手のモーレツサラリーマンだったそうです。
父親が起業に踏み切ったのは、この「甥」の奨めもあったようです。
なにはともあれ、「鉄」を扱う運送会社として起業した父は、会社を手伝ってもらう為に、小豆島から親戚を呼び寄せます。
母親に言わせると、この頃は、日々の暮らしが本当に苦しかったそうです。
当時の石井家兄弟の好物は、
「ツナと白菜の汁」
今思うと、とても不思議な気がしますが、この「汁」が出てくると大喜びしていました。
おかずはこれだけなんですヨ。
でも、この「汁」にご飯をぶち込んで食べるのが大好きでした。
後年、母親が語ってました。
「あの料理を喜んで食べているアンタたちを見て不思議だった。」
と。。
多分、貧乏だったんでしょうね。
でも、そういう時代だったようにも思います。
裕福だったとは思ってませんでしたが、特段、貧乏だったという記憶もありません。