昭和52年。
無事、高校生になりました。
東海は、中学から高校へは自動的に上がれます。
高校に入ってすぐの頃。
1年生だけが講堂に集められて、ある会が始まりました。
「クラブ説明会」
そんな名称だったかどうか、記憶は定かではありませんが・・・
とにかく、先輩方が講堂の壇上に立ち、自分たちのクラブのPRをする会でした。
文系から体育会系まで。。。
私は、「放送」というものに憧れを持っていました。
小学校の頃のことです。
放送委員だった私は、お昼の給食の時間に「放送」を行っていました。
当時は、お昼の時間はお知らせや、童謡を流す程度の放送を行っていました。
放送委員になる前から、この「お昼の放送」のことを「つまらない」と思っていました。
なんでもっと楽しい音楽を流さないんだ。
なんでつまらない「お知らせ」しかしないんだ。
そう思ってました。
6年生のある日。
自宅から、あるレコードを持って放送室に入った私は、おもむろにそのレコードをかけました。
学校中のスピーカーから流れてきた音楽は、
ご存じない方が多いかもしれませんが。。
1970年に発売になった曲で、ミリオンヒットになった曲です。
途中、早口で競馬の実況中継をする箇所があるのですが。。
私は、この曲が大好きで。
途中の実況中継の所を丸暗記していました。
この実況中継を放送でやってみたかったのです・・・
・・・・・・
放送後。
こっぴどく叱られました。^^;
なんで、あんな思い切ったことをしたのか。
今でもよくわかりませんが。。。
というエピソードを持っているほど、「放送」というものに興味がありました。
中学生の頃は、自宅でDJの真似事をしたりして、遊んでました。
当然「東海高校」にも、放送部はありました。
クラブのPRにも出てきていたと思います。
でも。。。
結果的に、放送部には入りませんでした。
何故か。
この日、あるクラブのアピールに後頭部を殴られたくらいの衝撃を受けたからです。
そのクラブの紹介には、2年生の先輩が3人出てきました。
(2年生のクラブ員はこの3人だけ)
そのうちのお一人が、とてもよく通る素敵な声で、朗々と自分のクラブの説明を始めたのです。
この先輩の「声」と堂々たる「姿勢」に心を打たれました。
その時に、決めました!!
「このクラブに入ろう!!」
それが。。。
「弁論部」だったのです。