この頃、父親が胃がんで亡くなったというのも大きな出来事でした。
父親が亡くなってからは、それまで想像すらしていなかった様々な事が自分の身を襲いました。
父親の葬儀を通じて感じた「喪失感」
高校を卒業して、東京の大学に通う事になった時、父親から言われた一言。
「親子の別れだ。」
結局、その通りになりました。
高校を卒業してから、実家に帰省はしていましたが、それまでのように一緒に暮らす事はありませんでした。
そして、残された母親、弟家族との想いもよらぬ展開。
逆に、それまで疎遠だった父親の生まれ故郷「小豆島」の親戚の方々との再会。
また、名古屋にいる親戚との再会。
子どもの頃は、夏休みの度に帰省していた小豆島。
子どもの頃は、しょっちゅう互いの家を行き来していた名古屋にいる親戚。
いつの頃からか、年一回の年賀状のやり取りだけになってしまっていました。
しかし、父親の死を境に、家族とは疎遠になってしまいましたが、逆に毎年小豆島に帰省し、名古屋の親戚とも「いとこ会」と称して会合を持つようになりました。
独立した時に、屋号を「あずきプランニング」にしたのも、こういった事があったからです。
(小豆島の小豆は、「あずき」とも読めます。あずきプランニングには、小豆島のような地方の小さな田舎から全世界に発信する、という意味を込めています)
その後、日本酒の会社の業績はあまり芳しくありませんでした。
研究会から遠ざかったからではありません。
多分、研究会を続けていたとしても業績は回復しなかったでしょう。
やがて、会社の体制も徐々に変わり始めました。
代替わりです。
私は、社長に拾われ、面倒を見て頂きました。
そのご恩は、人一倍感じているつもりです。
だから、社長の片腕として頑張ってきました。
しかし、その社長も人間です。
年を取っていきます。
私も年を取っていきます。
会社の未来。
そして、自分の将来を考えた時。
今、独立して一人でやってみる時期なのではないか。
そう考えました。
そして、その想いを社長に話しました。
社長は快く私の提案を受け入れて下さいました。
そして、2 年間の仕事を保証してくださいました。
念願の独立を果たしました。
それまでは、毎日、朝早く起きて蟹江から大垣まで通っていました。
当時は、それほど苦ではなかったのですが、やはり、長い距離の通勤がなくなると身体が楽です。
なんだか、どんな事でもできそうに思います。
しかし。。。
現実は、そんなに甘くありません。
わかっているつもりだったのですが、なかなか、契約を取ることができません。
今思えば足りない事だらけだったのですが・・・
こうして、「あずきプランニング」は船出しました。